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2007.12.08

柳都物語  第64回・天津の講義(1)

【柳都物語 第64回・天津の講義(1)】

「しつもーん」
 斉藤が手を上げた。
「『古町通り(ふるまちどおり)』に面した細長い店が二等分されて、その間に新しい『通り』ができたってのはよく分かりました。
 それじゃ、『本町通り(ほんちょうどおり)』に面した店は、二等分されなかったんでしょうか?

 なぜかというと、地図を見ると、『本町通り』と『東堀通り(ひがしぼりどおり)』の間にも、『本町通り』と『上大川前通り(かみおおかわまえどおり)』の間にも『通り』は無いからです。
 そのわけを教えてください」
 斉藤らしい、ちょっと小意地の悪い質問だった。
 さすがに麻美子もそこまでは調べてなかったようで、くびを傾げたまま困った顔で天津を見た。
 天津は、教室を見回しながら言った。
「誰か、今の斉藤の質問に答えられるやつはいるか?」
 クラス中、顔を見合わせるばかりで、ひとりの手も上がらなかった。
 あたりまえだよな。
 『本町通り』と『東堀通り』の間に、何で『通り』が無いかなんて、一度も考えたことないもんな。
「それじゃ、長沢先生に代わっておれが答えよう。
 みんなも知ってのとおり、おれの生まれは寺町の寺だ。
 長沢のレポートにもあったが、寺町の寺は江戸時代のはじめごろ、砂丘の上から、今の場所『西堀通り(にしぼりどおり)』に移ってきたわけだ。
 今から350年も前のことだ。
 で、おれの家にも古い書き付けなんかが残っててな。
 おれのじいさんの弟という人が、そういうのを読んだり調べたりするのが好きな人なんだ。
 これがまた、ひとりで読んだり調べたりしてるだけならいいんだが、人に講釈したがるのが悪いクセだ。
 まあそれで周りに煙ったがられたみたいで、講釈したくても相手がいなくなっちまった。
 そこで新しい標的にされたのが、幼少の頃のおれというわけだ。
 まだ鼻を垂らしてるような歳だったおれを、おそらく飴玉かなんかで釣ったんだろう。
 今にして思えば、鼻垂れ小僧が聞き役じゃ張り合いが無かったろうなと、ちょっと気の毒な気もするがな。
 そうやって、その講釈を何べんも聞かされてるうち、何の興味も無かった町の歴史が、自然と頭に入っちまった。
 いわゆる『門前の小僧習わぬ経を読む』ってやつだ。
 少し前置きが長くなったが、そんなわけで今の斉藤の質問にも答えられるってわけだ。
 さて、お立会い。
 なぜ『古町通り』の裏には通りができたのに、『本町通り』の裏にはできなかったのか?
 実は、この答えの大きなヒントが、さっきの長沢のレポートの中に書かれてあったんだぞ。
 長沢、ちょっとそのノート貸してみろ。
 確か、最初のほうだったな………。
 あったあった。
 長沢、こっからここまで、もう一度読んでみてくれ」

「ちなみに、『古町通り』は、もっと昔には『本町通り(ほんまちどおり)』と呼ばれていて、『本町通り』は『新町通り(しんまちどおり)』と呼ばれていました。
 でも、後からできた『新町通り』の方が、信濃川に近かったので発展して、そっちが『本町通り』になって、元の『本町通り』が『古町通り』という名前に変わったそうです」

「今読んでもらった文章は、新潟の町が今の場所に移ってくる前、今の住所でいうと『旭町通(あさひまちどおり)』あたりの高台にあったころの記述だよな。
 つまり、そのころすでに、『本町通り』の方が、『古町通り』より栄えてたってことだ。
 栄えてたってことは、『本町通り』の方に大きい店が多かったってことだろ。
本町通り 古町通り  そして、新しい新潟の町に、そのままの町割りで移ったわけだ。
 そこでも、『本町通り』の方が信濃川に近いから、『本町通り』の店はますます繁盛する。
 『古町通り』の方は、文字通り『古い町の通り』で、『本町通り』とは差が開くばっかりだ。
 ところが、『本町通り』の店も『古町通り』の店も、割りふられた敷地はだいたい同じ面積だったわけだ。
 長沢、もう一回ノート。
 こっからここまで読んでみてくれ」

【次回投稿は12月22日の予定です】

緑亥館通信「柳都物語・第64回について
物産コーナー「『第64回・天津の講義(1)』の巻

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