柳都物語 第63回・麻美子のノート(3)
【柳都物語 第63回・麻美子のノート(3)】
麻美子のノートは、まだまだ続いた。
「ここで、新潟の町ができたころの町の範囲を、今の地名で言うと次のようになります。
町の北の端は、『古町通十三番町(ふるまちどおりじゅうさんばんちょう)』のあたりまででした。
南の端は、白山神社でした。
東の端は『上大川前通り(かみおおかわまえどおり)』までで、そこはもう信濃川の岸でした。
西の端は『西堀通り(にしぼりどおり)』までで、そこが『寺町堀(てらまちぼり)』でした。
さっきも言ったように、『寺町堀』の西側には、砂丘の上からお寺が移ってきて、新しい寺町がつくられていきました。
古い新潟の町には、大きな『通り』が3本ありました。
信濃川に近いほうから、『本町通り(ほんまちどおり)』『片原通り(かたはらどおり)』『古町通り(ふるまちどおり)』です。
でも新しい町では『片原通り』が堀になったので、大きな通りは『本町通り』『古町通り』の2本になりました。
この2本の通りに向かい合わせて、いろんなお店が並びました。
『本町通り』は、信濃川と『片原堀(かたはらぼり)』の間を通っています。
『古町通り』は、『片原堀』と『寺町堀』の間を通っています。
どちらも通りに面した方がお店の表側で、敷地は裏側の堀や川までつながっていました。
そして裏の堀や川から、荷物の積み下ろしなんかを舟でしていたのです。
お店の間口(まぐち)は、四間(よんけん)が標準でした。
間口とは、通りに面した部分の幅のことです。
一間は1.8メートルなので、四間では7.2メートルになります。
それに対して、裏の堀や川までの奥行きはとても長くて、今の『柾谷小路(まさやこうじ)』のあたりで計ると次のようになりました。
『本町通り』では、信濃川との間が五十間、『片原堀』との間が六十間ありました。
『古町通り』では、『片原堀』との間は五十二間、『寺町堀』との間は四十間でした。
平均すると、だいたい五十間です。
五十間というのは、90メートルにもなります。
つまり、幅が7.2メートルで奥行きが90メートルという、短冊よりも細長い敷地だったわけです。
もちろん、こんな敷地いっぱいに建物が建っていたわけではありません。
通りに面してお店があって、その奥に家族の住まいや蔵がありました。
でもその裏は、堀までの間がずっと空き地になっていたのです。
空き地の堀や川に面したところは、最初は単なる家の裏でした。
でも、移転から数十年がたつうちに、堀や川に沿って『通り』ができてきました。
信濃川端には『大川前通り(おおかわまえどおり)』、『片原堀』に沿った両側に『片原通り』、『寺町堀』に沿った東側に『寺町通り(てらまちどおり)』です。
『大川前通り』は今の『上大川前通り』で、『片原通り』は今の『東堀通り(ひがしぼりどおり)』、『寺町通り』は今の『西堀通り』です。
やがて、この堀や川に沿ってできた『通り』に面して、新しいお店が建つようになりました。
つまり、短冊みたいだった敷地が真ん中から二当分されて、2軒のお店になったのです。
そして、背中合わせになった2軒の間にも、細い『通り』ができてきました。
『古町通り』と『寺町通り』の間にできた通りは、『西新道通り(にししんみちどおり)』と呼ばれるようになりました。
そして、『片原通り』と『古町通り』の間にできた通りが『東新道通り(ひがししんみちどおり)』と呼ばれるようになったのです」
ここで麻美子は、ようやくノートから顔を上げた。
おれを含めてみんな、呆然としてた。
天津もだった。
麻美子は困った顔をして天津を見ると、小さな声で「終わりました」と言った。
「あ、ああ」
天津は、何を言ったらいいかわからないって顔をした。
この分かりやすい男は、感動すると必ずこんな顔になる。
後ろで拍手の音がした。
振り向くと、奈美が立ち上がって拍手をしてた。
拍手は、すぐに教室中に広がった。
天津も、うんうんうなずきながら拍手をした。
最初は驚いた顔をしてた麻美子は、鳴りやまない拍手に、真っ赤になってうつむいた。
【次回投稿は12月8日の予定です】→柳都物語「第64回・天津の講義(1)」
緑亥館通信「柳都物語・第63回について」
物産コーナー「『第63回・麻美子のノート(3)』の巻」
| 固定リンク
トラックバック
この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/58912/17168619
この記事へのトラックバック一覧です: 柳都物語 第63回・麻美子のノート(3):

緑亥館物産コーナー
コメント