柳都物語 第62回について
「柳都物語・第62回」『麻美子のノート(2)』、いかがでしたでしょうか?
本編1枚目の写真(西堀通り)の撮影は、今年(2007年)の10月22日でした。
私が立っていたのは「西堀前通二番町」のあたりで、そこから下(しも・信濃川の下流方向)に向かって撮りました。写真のように、このあたりは柳の並木になっています。かつてはこの通りを「西堀/旧名・寺町堀)」が流れ、その岸辺には柳が植えられていました。今の柳並木は、その名残を微かに伝えています。
「柳都物語」の名のとおり、新潟は古来より「柳都」と呼ばれてきました。かつての新潟は、町の縦横を堀が流れ、その堀端に柳が揺れる町だったからです。
左の写真は、「西堀通り」にある「新潟市街角歴史案内」を写したものです。「大正時代の西堀(寺町堀)」とあります。モノクロなので分かりづらいですが、水面に柳が映り、まさしく「柳都」と呼ぶにふさわしい景色です。
こうした堀割は、40年以上前にすべて埋められ、「柳都」の景色は失われました。右の写真は、復元された堀割「早川堀」です(「早川堀」は、「柳都物語」の冒頭シーンに出てきます。『第1回・早川堀の幽霊』)。ここは少し整備されすぎていますが(昭和62年・建設省「手づくり郷土賞」受賞)、昔の新潟の町は、これに近い景色がどこでも見られたはずです。
明治11年に新潟を訪れた、イギリスの旅行作家イザベラ・バードは、その著書『日本奥地紀行』の中で、新潟の町をこのように書いています。
『町は整然と四角に区切られ、一マイル以上もある五つの街路から成っている。それを非常に多くの短い街路が横切り、運河が交叉して実際的な交通路となっている。
私は町の中で駄馬を見たことはない。すべてが舟で運ばれてくる。品物を戸口近くまで運河で運びこむことのできない家は、この町にはほとんどない。
これらの水路は一日中往来がはげしい。しかし早朝には、野菜を積んだ舟が入ってきて、その混雑は言語に絶する。この野菜がなくては、町の人は一日も暮してゆくことはできないのである。ちょうど今は、きゅうりを積んだ舟が見物である。
ふつう運河は街路の中央を流れており、両側には充分に広い道路がある。運河は、街路よりもずっと低く流れており、そのほとんど垂直の土手は、きれいに木材でおおってあり、処々に階段がつけてある。
川縁には木が並んでおり、その中にはしだれ柳が多い。川水がしだれ柳の間を通り、運河を気持よいものにしてくれる。
短い間隔を置いて軽い橋がかけてあり、運河は新潟の非常に魅力ある特色となっている。
(平凡社・高梨健吉訳/原典に改行はありません)』
冒頭部、「一マイル(1.6㎞)以上もある五つの街路」というのは、「西堀通り」「古町通り」「東堀通り」「本町通り」「上大川前通り」のことだと思います。「非常に多くの短い街路」というのは、「小路」のことでしょう。そして彼女が「運河」と呼んでいるのが、かつての「堀割」です。
本編2枚目の写真(東堀通り)の撮影日も、今年(2007年)の10月22日です。
こちらの撮影場所は、「柾谷小路」よりわずかに下(しも)のあたりです。この道路の真ん中を、かつては「東堀/旧名・片原堀)」が流れ、写真中央の白いビルの向こうで「新堀」と交わっていました。その交差した堀割には四ツ橋が掛けられ、夏祭りでは四ツ橋を盆踊りの輪が繋ぎました(柳都物語『第18回・堀のあったころ』/緑亥館通信「第18回について」「第20回について」)。
それでは次回の「柳都物語」をお楽しみに。11月24日、掲載予定です。
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