柳都物語 第61回・麻美子のノート(1)
【柳都物語 第61回・麻美子のノート(1)】
いつもの麻美子だったら、こんな風にうながされた途端、下を向いて黙っちまうとこだ。
でも、こんときの麻美子は違ってた。
天津にうなずいて席を立つと、ノートを握りしめて前へ出てったから、見てたおれたちの方がビックリした。
こうして黒板の前に立った麻美子は、眉を力ませて自分のノートを読み始めた。
「私の家の前の通りは『東新道通り(ひがししんみちどおり)』といいます。
『古町通り(ふるまちどおり)』と『東堀通り(ひがしぼりどおり)』の間にある通りです。
細くて車がすれ違えないので、一方通行になっています。
私は、この『東新道通り』がどういうふうにして出来たか調べてみました。
江戸時代の初めころ、河口近くの信濃川は、今よりもずっと広かったのです。
その広い川の真ん中には、中州という大きな島がいくつも出来ていました。
北の河口に向かう信濃川の流れは、中州のところで東西に分かれていました。
そのうち中州の西側を通る流れは、今の『東中通り(ひがしなかどおり)』のあたりを通っていて、西川(にしかわ)と呼ばれていました。
そのころの新潟の町は、その西川の西の岸にあったのです。
今の住所で言うと、『旭町通(あさひまちどおり)』から『西大畑町(にしおおはたちょう)』にかけてで、新潟大学の付属病院なんかが建っている砂丘の高台です。
町の西側の、さらに砂丘の高いところには、お寺が一列に並んでいて、寺町(てらまち)をつくっていました。
寺町のもっと西側は何もなくて、海まで砂丘が続いていました。
町には、信濃川と平行する大きな通りが3本通っていました。
3本の通りは、西側から『古町通り』『片原通り(かたはらどおり)』『本町通り(ほんまちどおり)』と呼ばれていました。
『本町通り』のさらに東側には、信濃川に面して『大川端通り(おおかわばたどおり)』という細い通りもありました。
ちなみに、『古町通り』は、もっと昔には『本町通り』と呼ばれていて、『本町通り』は『新町通り(しんまちどおり)』と呼ばれていました。
でも、後からできた『新町通り』の方が、信濃川に近かったので発展して、そっちが『本町通り』になって、元の『本町通り』が『古町通り』という名前に変わったそうです。
町には、信濃川に並行する通りのほかに、その通り同士をつなぐ小路がたくさんあって、格子状の街並みができていました。
新潟の町に接する信濃川(西川)の岸は、諸国の船が出入りする湊(みなと)になっていました。
湊では、船でやって来た商人が自由に商売をして、新潟の町はとても繁栄していました。
ところが、寛永八年(1631年)に大きな洪水が起こり、それ以来信濃川の流れが変わってしまったのです。
西川の流れが浅くなり、船が停泊できなくなってしまいました。
そのころの新潟の町は、長岡藩(ながおかはん)の領地でした。
湊に船が停泊できないのではとても不便なので、長岡藩は新潟の町を移転させることにしました。
でも、信濃川の東側の岸は新発田藩(しばたはん)の領地で、そこには沼垂(ぬったり)の町がありましたから、東の岸には移転できません。
それで、川の中州に移転することにしました。
中州はいくつかありましたが、そのうちの大きな2つの中州がくっついていて、寄居島(よりいじま)、白山島(はくさんじま)と呼ばれていました。
上流側に大きな白山島があり、河口側に小さな寄居島がくっついていて、2つの島の間は、法度川(はっとがわ)という細い流れになっていました。
新しい新潟の町は、この2つの島にまたがってつくることになりました。
長岡藩は、対岸の新発田藩にも断りを入れて、寛永十五年(1638年)、中州への移転計画を幕府に申請しました。
幕府から移転の許可が下りたのは、申請から16年も経った承応三年(1654年)のことでしたが、移転の工事は幕府の許可が下りる前から始まっていました。
と言うのも、西川はどんどん干上がって、とうとう中州と西の岸は地続きのようになってしまっていましたから」
【次回投稿は11月10日の予定です】→柳都物語「第62回・麻美子のノート(2)」
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