柳都物語 第34回について
『江戸時代の初め、新潟町の北のはずれ、当時の信濃川の河口近くに、州崎町とか浜町とか湊町とか呼ばれた町がありました。それがこのあたりの町です。砂丘と葦原に囲まれ、住んでいる人の多くは川や海で魚をとって暮らしていました。
江戸時代も半ばになると、岸に島ができて川は遠くなり、漁師は堀や艀下川(はしけしたがわ)を抜けて漁に出るようになりました。東の砂丘や島には寺や家が建ち、この辺りは漁師だけでなく多くの人々が住むようになりました。
明治になって今のような町名に変わりました。北の砂丘も開けてくると、町はますますにぎわうようになりました。近くの村々から大勢の人がやってきて、ここに住みました。西堀・東堀・御菜堀(ごさいぼり)や関口堀には沢山の船が通い、東堀通・本町通・湊町通には市が立ち、新鮮な野菜や魚が並び、売り買う人々の声が響き、夕刻には歓楽街へ向かう人々がざわめきました。昭和になると近くに活動写真館もできました。この町は、通りや小路を多くの人が行き交う、心やさしい庶民の町です。
明治二十七年、もとは湊町と呼ばれていた本町通十三番町のこの場所に、新しい学校ができました。湊小学校です。子供の数が増え、校舎が狭くなって、学校は大正元年に今建っている所へ移りました。
空き地になっていたこの場所に、昭和五年、曙公園ができました。この公園を造るために、近くの人々はお金を出し合い、樹木や柵を提供しました。学校帰りの子供が遊んだり、本町の市場に買い物に来た人が一休みしたり、青年たちが相撲をとったりする公園になりました。』
これで、曙公園に相撲の土俵がある理由がわかりました。
左の写真は、本編中でマメオヤジが見つけた『湊小学校創立の地』の碑です。
緑亥館通信の「柳都物語・第18回について」でも書きましたが、湊小学校は、鷲尾いさ子さんの母校です。
本編2枚目の写真(曙公園/方角石)の撮影日は、2002年11月7日ですから、今から3年以上も前です。
ご覧のとおり、すぐに鳩が寄ってきます。
残念ながら、雪に埋もれた方角石の写真は撮れていません。
水戸教公園の方角石は、周りが芝生なので少し段差があって、雪に埋もれていても割と見つけやすいのですが、曙公園の方角石は、周りのインターロッキングブロックと表面が揃っているため、雪が積もると全くありかが分からなくなります。
水戸教公園のときみたいに、人力ラッセルをして撮るという手もあるのですが(「柳都物語・第30回について」参照)、ここは人通りが多くて、とてもそういう行為に及ぶ勇気はわきせんでした。
それでは次回の「柳都物語」をお楽しみに。4月29日、掲載予定です。
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