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2005.08.27

柳都物語  第17回について

 「柳都物語・第17回」『天津のじいちゃん』、いかがでしたでしょうか?

 本編1枚目の写真は、前回の「緑亥館通信」でも書きましたように、日本銀行新潟支店長役宅だった建物の応接室を写したものです。

「茶寮六華」 砂丘館・応接室  この建物は、平成11年に新潟市が日銀から買い取り、翌年から一般公開されていましたが、平成15年の地方自治法改正により、公の施設の管理を民間に委託できるようになったのを受けて(指定管理者制度というそうです)、今年初めてここを管理する指定管理者の公募が行われました。
 7団体の応募者の中から、新潟絵屋さんと新潟ビルサービスさんの共同企業体が指定管理者に選定され、この7月から「砂丘館」という名称で、同共同企業体による管理・運営がスタートしています。
 今、応接室は、上の写真のように「茶寮六華」という洒落た喫茶ルームになっていて、きれいなお姉さんが迎えてくれます。
 で、本編に載せた応接室の写真は、指定管理者による管理が始まる前、新潟市が何の工夫もなく公開していた頃のもので、留守番みたいなおじさんが迎えてくれました。
 しかしながら、今の喫茶室では天津亮吉邸の応接室には見えないので、昔撮った写真を載せました。撮っておいて良かったです。砂丘館ホームページ

 さて、新潟島の堀ですが、本編中で天津亮吉が言っているように、昭和39年までにすべて埋められてしまいました。
 私は、昭和36年8月から38年4月までの短い間ですが、新潟島に住んでいました。もっとも、そのころは関屋分水路ができる前ですから、まだ「島」ではありませんでしたが。
 本編2枚目の写真として掲載した参考図書「新潟の堀と橋」に、堀割がいつ埋められたが詳しく書かれていますので、私がこの目で見た堀割があるかどうか調べてみました。
 私が住んでいた場所は、白山浦と関屋田町です。2歳から3歳にかけてでした。
 白山浦は、天津亮吉の「白山神社の前の広い道路、これが横の一番堀」というセリフにある一番堀から遠くありません。その一番堀から、宮浦堀を経て蔵所堀がつながっていました。私の住んでいた家は、その蔵所堀のすぐ裏だったそうです。
 関屋田町は白山浦の隣の街で、蔵所堀のさらに延長線上にあります。私の住んでいた家は、蔵所堀の終点のあたりだったようです。
 「新潟の堀と橋」によると、一番堀と宮浦堀の埋め立てが始まったのが昭和39年1月ですから、私はこれらの堀を見ているはずです。
 蔵所堀の埋め立ては昭和37年から始まり、同年暮れには完了しています。ぎりぎり蔵所堀も見ているはずです。
 一番堀とつながる西堀の埋め立ては、昭和38年6月開始となっていますので、西堀も見ているはずです。
 東堀は、下流の一部を残して昭和34年暮れには埋まってますから、これは見ていません。
 こうして調べてみると、私は間違いなく幾つかの堀を見ているはずなのですが、よほどボーっとした子供だったのか、何の記憶もないのは情けない限りです。

 なお、サイドバー右側の『「柳都物語」資料館』に、「新潟島堀割地図」を掲示いたしました。私が自作したもので、まだ怪しい箇所が多々あるのですが、とりあえず暫定版での公開です。
 この地図は、SVG形式というファイルになっていまして、Webブラウザで表示させるには、プラグインをインストールする必要があります。お手数をおかけして申し訳ありませんが、どうぞご了承ください。

 それでは次回の「柳都物語」をお楽しみに。9月3日、掲載予定です。

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