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2005.02.26

柳都物語  第4回について

 「柳都物語・第4回」『災いの元?』、いかがでしたでしょうか?

 本編中、尚樹と理絵の会話の中で、昭和39年に起こった新潟地震のことが出てきます。このとき、昨年の中越地震やスマトラ沖地震の話にも及ぶのが自然だと思いますが、2人はそんな地震など無かったように会話しています。

 これらの地震のことは、一言触れて片づけられるような問題ではないですし、逆にそっちの話をし始めると、こんどは物語が別の方向に行ってしまいます。というわけで、本編中ではあえて言及しませんでした。この物語は、大畑小学校がいまだに存在する、異次元の新潟市の出来事ということでご理解願いたいと思います。
 ところで、昭和39年の新潟地震のことですが、当時私は5歳で、新潟市の西隣にある巻町というところに住んでいました。家族の話では、幼稚園に祖父が迎えにいったということですが、全く憶えがありません。新潟地震では30人近い死者が出ていますから、新潟市に隣接する巻町でもかなり揺れたはずです。5歳なら、多少なりとも記憶がありそうなものですが、よほどぼんやりした子供だったのでしょう。三島由紀夫は生まれた瞬間の光景を覚えていたそうで、まあ、人間のできが違うと言ってしまえばそれまでですが………。
 マグニチュード7.5という地震の規模に比して、比較的犠牲者が少なかったのは、新潟市周辺が真っ平らな平野だったことにもよります。地形が平らなため、中越地震のような土砂崩れによる被害が無かったのです。
 新潟地震で特徴的な被害は、砂地盤の液状化現象でした。4階建てコンクリートの県営アパートが横倒しになったのも、これが原因でした。実は、このアパートの倒壊では、死者はもちろん負傷者も出ていないのです。それというのも、アパートは急激に倒れたわけではなく、じわじわじわじわと傾いていって、最後に横倒しになったからです。中にいた住民は屋上に避難していたそうですが、横倒しになる寸前に、屋上の手すりからぶら下がって、下の地面に飛び降りたそうです。ぶら下がった足元から地面までは、1メートルも無かったということです。
 新潟地震の震源は日本海でしたから、最高6メートルの津波が発生しました。新潟市にも、4メートルの津波が押し寄せてきました。津波は信濃川をさかのぼり、川岸をあふれて市街を水浸しにしました。
 しかし、スマトラ沖地震のように、浜から津波が襲うことはありませんでした。というのも、新潟市の海岸線には、砂丘が帯のように連なっているからです。砂丘の高さは15メートル位あると思います。その砂丘を越えると、海抜0メートル地帯の新潟平野が広がっています。つまり、海のすぐそばが一番標高が高いのです。
 スマトラ沖地震のように、30メートルもの津波が襲って来たら大変なことになりますが、多少の津波であれば、砂丘が自然の防潮堤の役割を果たしてくれているのです。しかし、その砂丘が存亡の危機に立っています。原因は海岸浸食です。
 以前、新潟の砂浜は、砂丘の向こうに長々と広がっていました。歩いても歩いても海までたどり着けなかったそうです。北原白秋の「砂山」にも詩われた砂浜は、その後、最大350メートルも後退してしまいました。今では、砂丘のすぐそばまで海が来ています。
 奇しくも白秋が新潟を訪れた大正11年、新潟平野の住民にとっては悲願ともいえた大河津分水路が完成しました。この分水路は、信濃川の氾濫から新潟平野を守るため、信濃川の水を途中で日本海に逃がすためのものです。しかしそのため、河口まで運ばれる土砂が減ってしまいました。さらに、新潟西港に造られた防波堤などにより砂の流れが変わったこともあって、砂浜の亡失は止まらず、とうとう砂丘の裾まで海が来てしまったのです。
 国がさまざまな対策を講じていますが、今後、地球温暖化による海面の上昇などがあれば、さらなる浸食も懸念されます。最後の砦とも言える砂丘を失ったら、新潟市は津波に対して全くの無防備になってしまうでしょう。
 今回は、少し堅い話になってしまいました。

 それでは次回をお楽しみに。3月5日、掲載予定です。

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