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2004.12.12

渚のシンドバッド

 カチ。カチ。カチ。カチ。
 時計の音が気になって眠れない。
 マナカは何回めかの寝返りをうった。
 きのう、目覚まし時計がこわれてしまった。
 チクタクと音はするんだけれど、針がぜんぜん動かない。
 秒針が同じところで振れている。
 それで今日、おとうさんが新しい目覚まし時計を買ってきてくれたんだけど。
 なにしろ、この部屋で一人で寝るようになってから、ずっと枕もとで聞いていた音が変わったんだもの。
 今朝は目覚ましがなかったので、寝ぼうしないか心配でぐっすり眠れなかった。
 だから、今夜は眠いはずなのに。
 どうしよう。
 何時かしら?
 でも、目を開いて時計を見たりしたら、すっかり目が覚めてしまいそうだ。

 しばらく目をつぶっていたけれど、一度気になってしまった音は、ますますはっきりと聞こえてくる。
「ダメだわ」
 とうとうマナカはベッドの上に起きあがった。
 枕もとの目覚まし時計を取りあげると、ベッドから一番遠い棚の上にあげた。
 ここなら、あのカチカチも聞こえないだろう。
 目覚ましのベルさえ聞こえればいいんだから。
 机の引き出しからこわれた目覚まし時計を出した。
 新しい目覚まし時計は電池だけど、こわれたやつは手巻きのゼンマイ式だ。
 おかあさんが子供のころから使ってたっていう年代物。
 この家はおかあさんの生まれた家だから、おかあさんがずっと使っていたものがけっこうある。
 おかあさんの時計は、まだゼンマイが戻りきってなくて、チクタクと動いている。
 秒針はやっぱり同じところで振れている。
 マナカはゼンマイのねじを巻きなおすと、枕もとにおいた。
 チクタク。
 チクタク。
「これこれ」
 この音でなくちゃ。
 マナカは電灯を消してふとんにもぐりこんだ。
 早く眠ろう。
 あしたは(もう日付は今日だ)、マナカの出席番号と同じ日付の日だ。
 きっと授業であてられる。
 ぼーっとしていられないんだもの。
 四年生になったら、時岡先生は急にきびしくなったみたいだ。
 あなたたちはもう十歳になるんだからって。

 マナカはいつしか眠りこんだ。
 夢の中で誰かが呼んでいる。
「マナカ」
 はじめて聞く声だ。
 でもずっと前から知っている。
 駅前通りを歩いている。
 人の波がマナカをさらおうとする。
 波の向こうから声は聞こえた。
 マナカは声のする方をじっと見すえた。
 人の波が一瞬切れて、マナカを呼ぶ声まで一直線の道がひらけた。
 女の子が立っている。
 マナカと同じくらいの年の子だ。
 マナカと目があった瞬間、女の子はくちびるのはしを少しあげて笑った。
 すぐに人の波が寄せてきて、女の子は見えなくなった。
 マナカは女の子のほうへ行こうとするけれど、つぎつぎとあふれる人の波にもまれて、方向さえわからなくなった。
 空がかたむいたみたいだ。
 背中が、どんと何かにぶつかった。
 いけない。
 マナカはふり返ってあやまった。
「ごめんなさい」
 顔をあげると、電話ボックスだった。
 なあんだ。
 人にぶつかったんじゃないんだ。
 そうだ、電話しなくちゃ。
 マナカは電話ボックスにはいった。
 誰に?
 誰に電話するんだっけ。
 それにこの電話、プッシュボタンがない。
 かわりに時計の文字ばんみたいになっている。
 この針をまわすのかしら。
 でも文字ばんにはガラスがはまっているから、針にさわれないじゃない。
 どうしよう。
 とつぜん、目の前の電話が鳴りだした。
「ジリジリジリジリ」
 文字ばんのガラスがゼリーみたいにふるえている。
 マナカは受話器を取った。
 電話ボックスの外の景色がかたむいている。
 それとも、電話ボックスがかたむいているのかな。
 マナカは受話器を耳にあてた。
「もしもし」
 なにも聞こえない。
 耳をすました。
「ジリジリジリジリ!」
 とつぜん、受話器からものすごい音が鳴りひびいた。
 マナカはびっくりして受話器を放りだした。
 放りだされた受話器は、魚みたいにピチピチとはねている。
「ジリジリジリジリ!」
 音はやまない。
 どうしよう。
 早く受話器をフックにもどさなきゃ。
 マナカは、はねまわる受話器をやっと両手でつかまえた。
 送話口が時計の文字ばんになっている。
 ブルブルとふるえて、ジリジリと鳴っている。
 マナカは受話器を逃がさないように、しっかりとにぎってフックにもどした。
「ジリジリジリジリ!」
 音はとまらない。
 どうしたらいいの?
「マナカ」
 またマナカを呼ぶ声がした。
 でもさっきの声とはぜんぜん違う。
「マナカ、起きなさい!」
 おかあさんだった。
「こんなに目覚ましが鳴っているのに、よく寝ていられるわね」
「お、おはよう」
「早くベルを止めてちょうだい。一階にいたってうるさくてしょうがないのに」
 だって夜中すぎまで眠れなかったんだもの。
 マナカは目をこすりながら棚の上の目覚まし時計を取りあげた。
 ベルを止める。
 文字ばんをにらむ。
 こいつだ。
 夢の中の電話機。
 そういえば、あの女の子。
 はじめて見る子だった。
 ふつう、夢の中には知っている人が出てくるものなのに。
 はじめて見る子だったけれど、ずっと前から知ってるような気がした。
 それにあの子はわたしのことを知っている。
 わたしを見て笑ったあの顔は絶対にそうだ。

 窓の外は雨だった。
 眠たいし、授業であてられそうだし、気が重いなあ。
 そう思っていたら、その日はほんとうにそんな一日だった。
 授業では三回もあてられて、そのうち二回は答えられなかった。
 給食を食べてからは、眠くて眠くて。
 そうだ、給食のサラダだって、マナカの嫌いなトマトがたっぷり入っていた。
 本当にひどい一日だった。
 でもやっと終わった。
 いつもなら文具店をのぞいたり本屋に寄ったりするんだけど、今日はまっすぐ帰ろう。
 雨はあがっていた。
 お日さまは出ていないけど、空はだいぶ明るい。
 雨あがりの街は、しずくがキラキラと光っていた。

 その夜、夕ごはんを食べて宿題をしていると、もう眠くなってきた。
 さすがに二日連続の寝不足はこたえるわ。
 今日は早く寝よう。
「マナカ、お風呂入っちゃいなさい」
 階段の下からおかあさんの声。
「はーい」
 お風呂からあがったらすぐ寝ちゃおう。
 こんなに早く寝るのは低学年以来かな。

 マナカはお風呂をあがるとすぐにベッドにもぐりこんだ。
 その夜の夢。
 ミナミ公園。
 真っ青な空。
 青い空へ鳩のむれがふきあがった。
 公園は人でいっぱいだ。
 ジャングルジムやすべり台には、幼稚園くらいの子供がむらがっている。
 おかあさんたちは、木陰のベンチでおしゃべりしている。
 だれが何をしゃべっているのか聞きとれない。
 たくさんの声がこだまして空へのぼってゆく。
 マナカは花でいっぱいの花壇をめぐりながら、中央広場の噴水の前へ出た。
 青い空へ噴水の水しぶきがあがっている。
 人の声は空に満ちている。
 きっとあったかい空気でふくらんで、空へのぼってゆくんだ。
 だれが何を言っているのか全然わからない。
 マナカは噴水池のへりに腰をかけた。
 公園の木の上を、むくむくした白い雲がわたってゆく。
 飛行船みたいだ。
 見つめていると、近づいたり遠ざかったりする。
「マナカ」
 急にはっきりした声が聞こえた。
 しかも自分を呼ぶ声だ。
 おどろいて声のほうをふり返ると、女の子が立っていた。
「あっ」
 きのう駅前通りで見た子だった。
 大きなアーモンド型のひとみ。
「あなたは、だれ?」
「ミカゲ」
「ミカゲ? あなたはわたしのこと知っているの?」
「そう」
「どうして? 会ったことないと思うけど」
「毎日顔を合わせているわ」
「えっ。そんな」
「そうね、マナカはわたしと会うのははじめてね。あ、2回目か」
「わからないわ。あなたはわたしと毎日顔を合わせてるって言うけれど、わたしはあなたを見たの、きのうの駅前通りがはじめてよ」
「そうなのよね」
「そうなのよねって、どうして?」
「つまり、マナカは夢の中でしかわたしに会えないの。ここは夢の中なのよ。わかるでしょ?」
 そうか、駅前通りも夢だったっけ。
「でもわたしは夢からさめた現実の中でもマナカと会っているの」
「わたしは会ったことないのに?」
「まだ会ってないから」
「まだ?」
「そう。わたしが会っているマナカはあなたとは歳がちがうの。あなたはまだわたしと会っていないマナカ」
「???」
 全然わからない。
 夢の中だからわからないのかな。
 飛行船の雲がさっきより大きくなっている。
「今わからなくてもしかたないわ。そのうちわかるようになるから」
 ほんとかな。
 公園のどこかに楽隊がいるらしくて、ブンチャカブンチャカ、のどかな音が聞こえてくる。
「よくわからないけど、まあいいわ」
「ははは。のんきなところ、今のマナカとおんなじ」
 マナカもいっしょに笑った。
 この子と会ったことはないけど、この子の笑い顔はどこかで見たことがある。
 アーモンド型のひとみをした女の子は、マナカとならんで腰をかけた。
 何を話していいかわからずに、マナカは飛行船の雲が形を変えていくのを見ていた。
「助けてほしいの」
「助けるって、あなたを?」
「助けてほしいのは、わたしたちと同い年の女の子」
 じゃあ、この女の子も四年生なんだ。
「だれ? わたしの知っている子?」
「うーん。むずかしいな。マナカとわたしみたいな感じかな」
 また全然わからない。
 でも、まてよ。
「なんで、わたしが助けるの?」
「その子を助けられるのは、マナカだけなのよ」
「どうして?」
「その子の夢にはいれるのは、マナカしかいないから」
 夢にはいる?
 こんなふうに?
「マナカ、今、十円玉もってる?」
「と思うけど」
 マナカはポケットをさぐった。
 あった。
 一個だけ。
「『10』ってある下に、その十円玉がつくられた年がほってあるでしょ」
「ある」
「それ、何年?」
「昭和五十五年」
「おしいな」
「おしいって?」
「昭和五十二年の十円玉をさがして。それも、できるだけたくさん」
「さがしてどうするの?」
「それはまたこんど。もう行かなきゃ。そろそろあなたが夢からさめちゃうわ」
 女の子は立ちあがると、マナカの手をにぎった。
「じゃあね。またくるから」
 マナカはあわてて立ちあがったけれど、女の子のうしろ姿は、もう公園の人ごみにまぎれてしまった。
 マナカは手のひらの十円玉を見つめた。
 見つめるうちに、十円玉がブルブルとふるえだした。
 表のもようが時計の文字ばんにかわった。
 十円玉は手のひらからはねあがると、マナカの目の前で、びよーんとのびた。
「ジリジリジリジリ!」
 とつぜん、十円玉からものすごい音が鳴りひびいた。
「やっぱり」
 こんどは、だいたい予想できた。
 電話機のときはおどろいたけれど。
 起きなきゃ。
 これは目覚ましの音だ。

 うすみどり色のカーテンに朝の光がゆれていた。
 今日は晴れている。
 カーテンをひらくと、七月の朝の光が部屋いっぱいにさしこんできた。
 こんなにいい天気なのに、まだ梅雨はあけないのかな?
 夢の中の女の子。
 ミカゲちゃんっていったっけ。
 何を言っているのかよくわからなかったけど。
 夢だからしかたないか。
 でも最後に、十円玉を集めてって言われたのは覚えてる。
 それも昭和五十二年。
 昭和五十二年って、何年前かな。
 マナカは、ノートのうらについている「西暦早見表」を開いた。
 一九七七年。
 えーっと、二十五年も前だ。
 二十五年前っていうと、おかあさんがわたしと同じ十歳のときじゃない。
 あるかな、そんな古い十円玉。
 マナカは階段をかけおりた。
「おかあさん」
「あら。今日は早いのね。おはよう」
「おはよう。おかあさん、おさいふの十円玉見せて」
「十円玉? マナカ、十円玉って見たことなかったっけ?」
「もう。昭和五十二年の十円玉がほしいの。あったら、わたしの十円と取りかえて」
 おかあさんは玉子やきをつくっていた。
「いま手がはなせないの。おさいふは食器棚の引き出しに入っているから見てごらんなさい」
 マナカは食器棚からおさいふを出して中をひらいた。
 小銭はけっこう入っているけれど、十円玉はあんまりない。
「ねえ、なにかのおまじない?」
「そんな感じ」
 平成十一年、平成三年、平成六年。
 平成四年、わたしの生まれた年だ。
 みんな平成。
 五十二年どころか、昭和のやつさえないや。
 これはけっこうたいへんだぞ。
 学校でみんなに協力してもらわなきゃ。
 マナカは、朝食をすますと家からとびだした。
 今日は少し暑いくらいだ。
 山本さんちの庭で、タチアオイの花が真っ赤にゆれていた。
 教室で、エリカやアサミにも手つだってもらって十円玉をさがした。
 いちばんこまったのは、どうして昭和五十二年の十円玉がいるのって聞かれること。
 わたしにもわからないんだもの。
 あとで話すからって言うしかなかった。
 それでも、やっと二つ見つかった。
 ポケットで鳴っている。
 今夜の夢が楽しみだ。
 ぜったいに理由を聞かなきゃ。

 その夜の夢。
 どこだろう。
 マナカはゆっくりとあたりを見まわした。
 自分はとまっていて、景色のほうがぐるりとまわる感じ。
 学校だ。
 裏門の前。
 門のとびらは閉まっている。
 とびらは鉄の柵みたいになっていて、向こう側が見とおせるけれど、誰のすがたも見えなかった。
 ミカゲちゃんはどこだろう。
 花壇の前にもウサギ小屋にも誰もいない。
 休みの日かな。
 鉄の柵のすきまから見る景色はなんだか変だ。
 柵のすきまから入れないかな。
 鉄の棒が、にゅーって曲がればいいのに。
 夢なんだから。
 マナカは柵をにぎった手にちょっと力をいれてみた。
 びくともしない。
 でも手を放したら、とびらはスーッと向こうがわへ開いた。
 あのイヤな音もしなかった。
 放課後かな。
 プランターのマリーゴールド。
 サルビアがゆれている。
 校舎は真っ黒い影みたいだ。
 屋上のフェンスはクシの歯みたい。
 あっ。
 屋上にだれかいる。
 マナカは階段めざしてかけだした。
 一段とばしでかけ上がろうとしたとき。
「わっ」
 目の前にミカゲがいた。
「やっぱりマナカってあわてんぼうね」
 風がひゅーひゅー吹いている。
 屋上だ。
「そんなにあわてたら夢からさめちゃうじゃない」
 ミカゲちゃんの髪が風になびいて生きものみたいだ。
 ミカゲちゃんの姿が遠くなったり近くなったりする。
「ほら、夢からさめそうになってる。会ったばかりで帰られたら困るじゃないの」
「ごめん。でも、階段をかけあがろうとしたら、すぐ屋上なんだもの」
「思うだけでいいのよ。屋上に行こうって。夢なんだから」
 そうか。
 それで裏門のとびらも開いたんだ。
 夢って便利だ。
「十円玉見つかった?」
 マナカはポケットをさぐった。
 ちゃんと入っていた。
「二つだけ?」
「うん」
「まあとりあえずいいわ」
「どうして昭和五十二年のじゃなきゃダメなの?」
「今日はそれを教えてあげる。このへんに公衆電話ない?」
「裏門のササキ文具店にある」
「じゃ、そこへ行きましょ」
「うん」
 マナカは階段のほうへ歩きだした。
「ほら、またわすれてる」
「え?」
「これは夢なんだから、思うだけでいいんだって」
「あ、そうか」
 マナカは、目を閉じてササキ文具店を思いうかべようとした。
「ちょっと待ってよ。わたしは、そのササキ文具店なんて知らないんだから。いっしょにつれてってよ」
 ミカゲは、マナカのうでをつかんだ。
「さあいいわよ。ほんとにマナカってあわてんぼうね」
 マナカはもう一度目をつぶって、ササキ文具店を思いうかべた。
 目をうすめにあけて見ると、裏門通りがずっと向こうまでつづいている。
 マナカは目をぱっちりとあけた。
「着きました」
「ははは。ああ、なんだここか。ここ、お店だったんだ」
 緑色の公衆電話。
「どうするの?」
「電話をかけるのよ」
「やっぱり」
 マナカは受話器をとって、ポケットの十円玉を入れた。
 プッシュボタンに手をのばしてから気がついた。
「どこへかけるの?」
「もう。のんびりやのくせにあわてんぼなんだから。ちっともかわってないわ」
 そんなこと言われたって。
「○○○の××××」
 ミカゲは七けたの番号を言った。
「市内局番が三けたなんて、どこにもかからないよ」
 東京の市内局番は四けただ。
「いいの。昔は三けただったの。かける先は昭和五十二年だから。昭和五十二年のミナミ病院」
 家の近くの病院だ。
 マナカも何回かお世話になっている。
「相手の人がでたら、なんて言うの?」
「相手の人はでないわ。マナカが向こうへ飛ぶのよ」
「飛ぶ?」
「昭和五十二年のミナミ病院へ飛ぶの」
「えーっ」
 二十五年も前に飛ぶ?
「ミカゲちゃんもいっしょに行ってくれるんでしょ?」
「できないの」
「どうして?」
「二段飛びはできないの。わたしはマナカのところまで飛んできているのよ。この先へは飛べないの」
「わたしひとりで行くの?」
「なさけない声ださないで。ちゃんと帰ってこれるから」
「ミナミ病院へ行ってどうするの?」
「前に言ったでしょ。女の子を助けるのよ」
「どうやって?」
「それはわたしにもわからない。その女の子は昭和五十二年のミナミ病院に入院しているの。マナカの行く先は、その女の子の夢の中よ」
 夢の中へ?
 そんな歌があったな。
「早くしないと夢からさめちゃうわ」
「わかった。番号もう一回教えて」
 マナカはミカゲの言った番号をおした。
 受話器に耳をすます。
 ルー。ルー。ルー。
 呼びだし音が鳴っている。
 ガチャ。
 受話器を取る音だ。
 やっぱり誰かが電話に出たよ。
 ミカゲの方をふり向こうとしたとたん、まわりの景色がウズマキになった。
 洗濯機の中をのぞいたみたい。
 マナカはあっというまにウズマキにすいこまれた。
 ぐるぐるまわる。
 目がまわる。
 マナカはぎゅっと目をつぶった。
 ウズマキの回転がだんだんゆっくりになる。
 やっとウズマキがとまると、マナカはうす暗い部屋に立っていた。
 赤電話がある。
 ダイヤル式のやつ。
 ソファーがたくさん並んでいる。
 テレビが映っていた。
 ここは病院の待合室だ。
 でも、マナカの知っているミナミ病院じゃなかった。
 もっと、ずっと古い感じ。
 そうか。
 ミナミ病院は、建てかえられたんだ。
 がらんとしている。
 ソファーの列。
 室内灯が消えているから、きっと消灯後だ。
 なんでテレビだけ映っているんだろう。
 あっ。
 女の子がいる。
 たったひとりで、ソファーにすわって、テレビを見ている。
 テレビではピンク・レディが歌っていた。
 おかあさんが子供のころすごい人気で、おかあさんも大ファンだったって。
 テレビのなつかし番組の特集でピンク・レディがでたとき、おかあさんは大喜びしていた。
 曲は、『渚のシンドバッド』だ。
 おかあさんがときどきキッチンで口ずさんでいる。
 テレビの画面がチカチカするたび、待合室の中が明るくなったり暗くなったりする。
 あの女の子を助けるのかな。
 消灯後の待合室にいるんだから、きっと入院しているんだ。
 ということは病気?
 ケガかな?
 でも、そんな子をわたしがどうやって助けられるの?
 とにかく聞いてみなくちゃ。
 マナカは女の子に近づいた。
 話しかけようとしたとき、女の子がふり向いた。
 白い顔。
 白い顔にテレビの光がチラチラと映る。
 似ている。
 ミカゲちゃんにそっくり。
「こんばんは」
 ちょっと変かなと思ったけれど、マナカはあいさつをした。
 女の子はマナカを不思議そうに見ていた。
「はじめまして。マナカといいます」
「マナカ?」
 女の子は少し笑った。
 テレビでは『渚のシンドバッド』がずっと続いている。
 この子は、よっぽどこの歌が好きなんだ。
「あなた、病気?」
「うん」
「入院しているの?」
「うん」
「『渚のシンドバッド』好き?」
「うん」
 全然話が続かない。
 マナカの困った顔を見て、女の子はにっこりと笑った。
「びっくりした。夢で人に会うなんて久しぶりなんだもん。ずっと、夢でもひとりぼっちだった」
「入院、長いの?」
「春から。三ヶ月くらい」
 そう言うと、女の子はマナカの目をじっと見つめた。
「学校行きたい」
 そうかあ。
 三ヶ月も行けないんじゃね。
「わたしの病気、直らないの?」
「え?」
「もう学校行けないの?」
「そんなことないよ。必ず行けるようになるから」
 どうしたらいいんだろう。
 女の子はマナカを見つめている。
 ピンク・レディの声が、急にゆっくりになった。
 テレビを見るとウズマキ。
 あっと思う間もなくすいこまれた。
 ぐるぐる回って、ウズマキが止まると真昼の道。
 ミカゲちゃんが目の前にいた。
「わたし、帰ってきちゃったの?」
「通話時間が切れたのよ。十円玉、二つしかなかったから」
 そんな。
 夢って、もっと便利じゃなかったの?
「どうだった? 女の子に会えた?」
「うん。でもなんか、真っ白な顔でさびしそうだった」
 ミカゲちゃんはむずかしい顔で考えこんだ。
「ちょっとシンコクみたいね。あした助けなきゃ。十円玉お願い。たくさんよ」
 ミカゲちゃんの髪が、風になびいている。
 ミカゲちゃんの姿が、遠くなったり近くなったりした。
 ストップモーションみたいだ。
 と思ったとたん、となりの公衆電話がブルブルとふるえだした。
 プッシュボタンが、ぐにゃっと変形して、時計の文字ばんになった。
「ジリジリジリジリ!」
 朝だ。

 その日、マナカは一生けん命、昭和五十二年の十円玉をさがした。
 ふだんしゃべらない子や、よその組の子、男子にも聞いて回った。
 ときどき理由を聞かれたけど、まだ話せない。
 だってわたしにだってよくわからないんだもの。
 先生は、努力はうら切らないって言うけど、本当だった。
 十一個も集まった。
 半信半疑でさがしたきのうはたった二個だったのに。
 ポケットがじゃらじゃらと重たい。
 きのう夢で使った二個は、朝になったら無くなっていた。
 でも今夜は十一個もあるから、とりあえず安心だ。
 マナカはハチマキをしめるような気持ちでベッドに入った。

 その夜の夢。
 ササキ文具店の前だ。
 ミカゲはもう待っていた。
 マナカは大得意で十一個の十円玉を見せた。
「大漁ね」
 マナカは受話器を取ると十円玉を入れはじめた。
「わたしが入れといてあげるから。マナカはすぐ向こうに飛んで」
 なんだかキンパクしている。
 マナカは残りの十円玉をミカゲにわたした。
 ミカゲの手のひらは真っ白で、冷たかった。
「これかけていって」
 ミカゲは自分のペンダントをはずすと、マナカのくびにかけた。
 チェーンの先に銀色のカプセルがついている。
 中に何か入っているみたいだ。
「がんばってね」
「うん」
 マナカはきのうの番号をおした。
 ウズマキ。
 ぐるぐる回る。
 ウズマキがゆっくりになって、止まる。
 真っ白いドアの前だった。
 同じようなドアが、うす暗いろうかの向こうまでつづいている。
 病室だ。
 マナカは目の前のドアをノックしようとして、やめた。
 夢なんだから。
 マナカがノブに手をのばしたら、ドアは音もなく向こう側へ開いた。
 部屋の真ん中にベッドがある。
 あの女の子がねむっていた。
 マナカは部屋の中に足をふみ出した。
 ところが。
 足の裏でふむはずのゆかが無かった。
 落ちる!
 目の前に水面があった。
 バッチャーン!
 マナカは顔から水にたおれこんだ。
 ゴボゴボゴボ。
 水をたくさん飲んで、水面に顔がでた。
 足がつかない。
 まだ十五メートルしか泳げないのに。
 落っこちたドアが見えない。
 あっ。
 ベッドがういている。
 マナカは必死でベッドまで泳いだ。
 ベッドにすがりつくと、マナカの手が引っぱられた。
 目を上げると、あの女の子。
 マナカは、ベッドの上にはい上がった。
「だいじょうぶ?」
 女の子は心配そうにマナカの顔をのぞきこむ。
 わたしの方が助けられちゃった。
 でもひどい夢。
 ベッドは真っ黒い水に囲まれている。
 遠くにドアが開いていた。
 部屋のかべらしいものも見えた。
 でも遠い。
 なんでこんなに大きいの、この部屋。
 どうしよう。
 女の子はきのうよりもさらに白い顔をしていた。
「だいじょうぶ?」
 今度はマナカがたずねた。
 女の子は小さくうなずいたけれど、元気がなかった。
 あっ。
 ベッドが流れている。
 黒い水面はいつの間にか波立って、大きな魚の背のようにうねっていた。
 ベッドはたちまちうねりに飲みこまれて、木の葉のように回りはじめた。
 ベッドから転げ落ちそうになって、一生けん命シーツにしがみつく。
 水のうねりは、ところどころでキョウリュウの首みたいにのび上がった。
 のび上がったまま、うねうねとくねって、からみ合った。
 その首の間をベッドは木の葉のようにすべってゆく。
 病室のドアが近づいてくる。
 どんどん大きくなる。
 体育館のとびらより大きい。
 ベッドはその下を、くるくる回りながらくぐった。
 病室を出たってことは、ろうか?
 真っ赤な空。
 ろうかの天井かな。
 なんであんなに赤いんだろう。
 女の子の顔も、パジャマも、シーツも、真っ赤にそまっている。
 くるくる回っていたベッドは、へ先を一方に定めると、またすべるように走りだした。
 キョウリュウの首が、ベッドの進む先へつぎつぎと立ち上がる。
 ベッドをまねくように首がゆれている。
 マナカと女の子を乗せたベッドは、首の柱をぬってすべってゆく。
 とつ然、ベッドがかたむいた。
 へ先の方へ転げ落ちそうになる。
 ベッドは、へ先を下げて、うねる波のこぶを乗りこえながら下ってゆく。
 滝?
 マナカはふり落とされそうになって、ベッドのへりをつかむ手に力を入れた。
 すぐにベッドは平らになって、でこぼこの波もおさまった。
 終わったのかな。
 マナカは顔を上げると、ベッドのただよう先を見た。
 あっ。
 もう一回ある。
 またあの滝だ。
 そうか。
 これは階だんだ。
 今の平らなところは、階だんのおどり場だ。
 真っ黒な波の階だんをふたたびベッドは下りはじめた。
 マナカは必死でベッドにしがみつく。
 背中がはねあがる。
 そしてもう一度おどり場。
 マナカは女の子を見た。
 自分が落ちないようにするだけでせいいっぱいで、女の子をかばっているよゆうはなかった。
 この子、よく落っこちないでいられるな。
 女の子はあおむけにねて、目をとじている。
 なんだか、ベッドにハリツケにされているみたいだ。
 と思うまもなくまた階だん。
 ベッドは軽々と波をこえてゆく。
 まるでサーフィンボード。
 『渚のシンドバッド』だ。
 階だんとおどり場。
 何回あったかな。
 こんどは長いおどり場だと思っていたら、ちがうみたい。
 一階に着いたのかな。
 見まわしたけれど、受付も待合室も見えない。
 ろうかだ。
 病室のろうかよりも暗い感じがする。
 ベッドは暗いろうかを、ゆっくりとただよっていく。
 行く先に小さな明かりが見えた。
 ろうかのつきあたりに、大きなとびらが見えてきた。
 とびらの上に明かりがついている。
 なんだか前に来たことがある。
 こういうところ。
 あっ。
 思い出した。
 おじいちゃんが死んだとき。
 地下だ。
 一階じゃなくて、その下の地下。
 明かりの下に、プレートがかかっていた。
 『霊安室』
 ベッドはそのとびらへ向かって、ゆっくりとただよっていく。
 明かりが少しずつ大きくなってくる。
 とびらの合わせ目が見えてきた。
 合わせ目の左右にノブがついている。
 両開きの大きなとびら。
 あっ。
 合わせ目の黒いすじがだんだん太くなっている。
 水の流れが少し速くなった。
 明かりに照らされた合わせ目の向こうに、黒い水が流れ落ちていた。
 とびらが開きはじめている!
 ごうごうという水音が聞こえてきた。
 とびらの向こうは本物の滝だ。
 流れはだんだん早くなる。
 マナカは水に手を入れて、流れにさからおうとした。
 とびらの合わせ目がどんどん大きくなる。
 滝の音も、もうすぐそこで聞こえる。
 女の子は真っ白い顔で横たわったままだ。
 助けて!
 ミカゲちゃん、助けて。
 マナカはペンダントをにぎりしめた。
 あっ。
 光った。
 カプセルが手の中で光っている。
 マナカはペンダントを首からはずすと、カプセルを両手でにぎりしめた。
 とびらはもうすぐ後ろだ。
 助けて!
 とつ然、チェーンがするするとのびた。
 ペンダントはマナカの手を飛び出そうとする。
 チェーンが、とびらのノブに向かってのびている。
 そうか!
 両側のノブにチェーンがからめば。
 マナカはペンダントを投げあげた。
 お願い!
 ペンダントは、とびらをめがけて飛んでいって、ピーンと横に張った。
 両側のノブにからみついている。
 どん!
 ベッドがとびらにぶつかった。
 合わせ目はベッドのはばより少しせまかった。
 ベッドの下で、黒い水がごうごうと落ちている。
 とびらの向こうは、真っ暗だった。
 明かりがとどかなくて暗いんじゃない。
 何にもないんだ。
 とびらの向こうには何もない。
 からだがすくんで動けない。
 あれ?
 合わせ目が少しずつ細くなっている。
 マナカはペンダントを見上げた。
 ノブにからみついたチェーンが、ギリギリと縮んでいる。
 チェーンはピーンと張りつめて、いまにも切れそうだ。
 カプセルが光っている。
 お願い!
 マナカは両手を組んでいのった。
 ギリギリ。ギリギリ。
 ノブとチェーンのこすれる音。
 鉄の粉がパラパラと降ってきた。
 閉まって!
 合わせ目は一本の棒くらいになった。
 ギリギリ。ギリギリ。
 もう少し!
 バッターン。
 大きな音があたりにひびいた。
 閉まった!
 合わせ目は消えて、とびらはつぎ目のないかべのようだった。
 マナカの手の上にペンダントが落ちてきた。
 見上げると、ノブも消えている。
 マナカはペンダントをだきしめた。
 あっ。
 水が引いていく。
 真っ黒い水面がみるみる下がっていく。
 とうとう水は引ききって、真っ白いゆかが現れた。
 顔をあげると、病室だった。
 窓の外がうす青く明るい。
 マナカはベッドからおりた。
 スズメの声がする。
 朝だ。
 女の子はまだねむっていた。
 でも、真っ白かったほほに赤みがさして、口もとが笑っているみたいだ。
 助かったんだ、この子。
 あっ。
 窓の外。
 虹。
 大きな虹が、街なみの上にかかっていた。
 ミナミ小学校が見える。
 虹は小学校までとどいていた。
 マナカは女の子をふり向いた。
「きっと学校行けるよ」
 女の子はにっこりと笑ったみたい。
 あれ?
 まくらもとの目覚まし時計。
 おかあさんにもらった目覚ましにそっくり。
 わたしのよりずっと新しいけど。
 マナカが時計に手をのばしたとたん、文字ばんがウズマキになった。
 たちまちすいこまれる。
 ウズマキが止まると、ササキ文具店の前。
「よかった!」
 ミカゲちゃんが飛びついてきた。
「十円玉、あと一個しかなかった。間に合わないかと思った」
「これのおかげ」
 マナカはペンダントをくびからはずすとミカゲに返した。
「そのカプセル、何が入っているの?」
「へそのお」
「へそのお?」
「わたしのへそのおが入っているの」
 すっごい、へそのおパワーだ。
「ねえ、また夢で会える?」
 ミカゲはくびを横にふった。
「もう会えないの?」
「こんどは現実で会えるのよ」
「いつ?」
「十五年後」
「じゅーごねんご! そんな先なの? あたし、覚えているかな。ミカゲちゃんは覚えていてくれる?」
「無理よ。だってその時、わたしたちは初めて出会うんだから」
「???」
「もう時間ね」
 公衆電話がふるえだした。
 プッシュボタンが文字ばんになる。
「ミカゲちゃん」
 ミカゲはにっこりと笑った。
 やっぱりあの女の子に似ている。
「そんな悲しそうな顔しないで。十五年後にかならず会えるんだからね。ママ……」
 え?
 ジリジリジリジリ!
「ミカゲちゃん!」
 マナカは文字ばんにすいこまれた。

「ジリジリジリジリ!」
 マナカはベッドの上に飛び起きた。
 目覚ましのベルも止めずに、しばらくぼーっとしていた。
 階だんをあがる足音がして、ドアが開いた。
「マナカ! なんだ、起きてたの」
 おかあさんは、棚の目覚ましを止めて、窓のカーテンを開けてくれた。
「すっごいいい天気よ。梅雨が明けたって。テレビで言ってた」
 マナカは病室から見えた虹を想いだしていた。
 きれいな虹だったな。
 ミカゲちゃん。
 十五年後。
「マナカ。マナカどうしたの? ぼーっとして」
 おかあさんはマナカのひたいに手をあてた。
「熱はないみたいね。だいじょうぶ?」
「だいじょうぶ」
「それならいいけど。気をつけてよ。おかあさんはね、いまのマナカとおんなじ年のときに、すっごい病気になって、死にそうになったんだから」
 おかあさんは、しばらくマナカを見つめていた。
「だいじょうぶなら、早く着がえなさい。ごはんよ」
「はい」
 おかあさんは、『渚のシンドバッド』を口ずさみながら階だんを下りていった。
 マナカはベッドから降りて、窓の外を見た。
 ほんとにいい天気だ。
 マナカは大きくのびをした。
 あれ?
 枕もとの時計。
 おかあさんにもらった目覚まし。
 針が動いている。
 きのうまでは、秒針が同じところで振れていたのに。
 ちゃんと動いている。
 チクタク。
 チクタク。
 朝の光が文字ばんにおどっている。
 今日は暑くなりそうだ。

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